10.202018
徳島県板野町主催の自殺予防強化事業講演会
講演の前に、町長室へお声掛けいただきお邪魔しました。
過去にとある庁政策室でお手伝いをさせていただいた経験がありす、私。様々な政策を伺いうことで、地域のあり方がよく見えてきます。どう動けば良いのかのヒントを沢山いただきました。
私の仕事も社会問題に直面する仕事なので、地域で何とか出来ないものか、普段からそういうことで頭がいっぱい。私の周りの皆さんと、年齢職種問わず語り合う毎日を過ごしています。
町長さん、防災意識もとても高く、様々な質問をいただきました。公開されていない沢山のことに気付かれていて、すごい!感動。あー、もっとお話しを伺いたいと思いながら、講演へ。
講演前のご挨拶も、町長さんが担当されました。本当に、よく働かれる町長さん。と言うのも、国会議員、県議会議員、市町村議員さん、議長さんにお会いすることも普段から多いため、ご多忙さは尋常じゃないことを存じ上げております。
実は今回、私が一番嬉しかったことがありました。
以前、全く別の県の、ある講演に伺ったときのこと。
「笹原さんは、死体を洗い、死体に触るお仕事です。みんなが嫌がる仕事をしてくれる下支えをしてもらって、私たちの生活があります。どうぞ、下支えの人に対して、偏見の目で見ないでください。」
と講演前の挨拶がありました。しかも、この内容で15分。立場は立派な人でした。でも、私の心はどんどん傷付いていきました。
私は、自分の仕事に誇りを持っているし、今は多くの御遺族に励まされ、力をいただいて、私の周りの皆さんも亡くなられた方皆さんに心を寄せてくれ、社会問題も一緒に考えてくれたりしているわけです。現場は一人一人が本気で故人と家族を守りたいとチーム構成で成り立っており、現場状況を全く知らないのでしょうが、「死体」と「偏見」と言う言葉にとても違和感を感じました。
「死体」という言葉を使うときには、亡くなられた方の数を把握する時に使います。その人が誰なのか分からない時にも使うことがあるかもしれません。家族が見付かれば「ご遺体」になり、家族の元に帰れば「その方」になり名前を呼んでもらえます。だからきっと、亡くなった方を「死体」と呼ぶ人は、数の内と私には聞こえてしまって、尊厳が失われた感じで悔しかったのかな?そんな気持ちでした。
発言する側と、受け取る側の問題は、普段から色んなところで発生していると思います。永遠のテーマなのでしょうね。
そんなモヤモヤの気持ちのまま、過ごしていた私。町長さんが言ってくれた言葉で気持ちが晴れやかになりました。
「亡くなられた方に手厚くお世話をして、亡くなられた方と家族をつなぐ、素晴らしいお仕事です。後略」
と紹介されたこと、とても嬉しかったです。
分かってくれる人に分かってもらえたら、それでいいか・・・。いや、待てよ。でも、亡くなった人が死体と呼ばれ続けて良いものか?そうか、もっと私なりの方法で公開出来ることは公開していこう。
言ってはいけないことが多いのも、死の世界。絶対的なルールがあるのも、死の世界。でも実は、死の世界はとても温かく包み込まれていて、光が射す瞬間が何度もあり、そのプロセスの中で、悲しみを力に変えた人の世界はとても広いのです。
きっと、死の世界は未知の世界なんだろうな、知らない人には。それがとてもとても残念でなりませんでした。
町長さんの言葉は、亡き人の尊厳を守り、御遺族に寄り添う温かい言葉がたくさん出ていました。きっと町長さんは、深い悲しみを体験されご存知で、辛さや苦しみも充分に知っておられる方なんだろうなと、思いました。そして、いつもそういう思いでご公務を大切にされているんだと、益々尊敬しました。
町民の皆さんも、会場を温かい雰囲気に包み込んでくださって、それはもうステキで深い時間でした。
講演終了後には、ご参加いただいた皆さんからのご要望にお応えして、会場の出口で皆さんと握手会。女性の皆さんはハグしてくださる方も多く、とっても癒されちゃいました。
講演の中で、
「こうして四国にお招きいただいて、八十八ケ所の一ヶ寺でも、お参りしてみたかったです。」
と本音をポロリと申し上げたところ、なんと!会場に四国八十八箇所・三番札所の金泉寺(こんせんじ)様のご住職の奥様が参加されており!是非!と、お声掛けいただいて、お参りさせていただきました!
嬉しかった〜〜
お寺に着くと、ご住職と奥様が出迎えて下さり、お寺の中をご案内いただきました。
大きな掛け軸があり、なんて優しい表情なんだろう、弘法大師かなぁ?と独り言を言って掛け軸の前に座っていたら奥様が、
「お大師さまって、みんな呼ぶんですよ。」
と、教えてもらいました。
「お大師さま・・・」と、小さな声で言ってみたら、なんだか急に暖かい空気に包み込まれているような、とてつもなく不思議な空間の中に居る気がしました。
ご住職と奥様に、お寺の中をご案内いただいて、最後にどうしても気になることがあって、質問をさせていただきました。
「全国各地を回らせていただいていて、気が付いたことがあります。それはもうたくさんの場所に「弘法大師の水」と言う場所がとても多いのは、何故なのでしょうか?土地の人に伺えば、弘法大師が錫杖(お坊さんが托鉢など修行中に持っている杖)を土に刺して抜いたら水が湧いたとか、弘法大師が掘った、見付けたと、どこの地域でも似た話を伺いました。」
ご住職が教えてくださいました。
「水は、人が生きる上で絶対に欠かせないものです。昔は、きれいな水を手に入れること自体が大変なことでした。
飲み水としてきれいな水が沸いているところは、人が住めます。健康な体を維持するためにも、きれいな水が必要です。そして、そういうきれいな水のある所に人が集まり村を作る。水のある場所は、いのちをつなぐ場所なんです。」
水というキーワードだったのか。弘法大師の活躍は、様々な伝説が伝えられとても有名です。
きっとお大師さまは、多くの人のどうにもならない苦しみや悲しみのすぐ傍に居て、命をつないでもらった多くの感謝をした人たちが、大切に残した場所であったこと、そういう場所であったことは間違いないなと、学びました。
多くの神社仏閣、霊場など歴史的遺産は、昔から生きとし生けるものすべてにとって大切にされていた場所であること、分かったつもりで意識できていなかったことに出逢えた時間でした。
現在でも、多くの巡礼の方が四国八十八ケ所をお参りされていました。夕日に照らされたお遍路さんの姿が、とても輝いて見えました。
「信心」は、人が生きるための根本と、道徳や倫理を学び得て、感謝の連鎖が生み出すお互いの幸せ、思いやりの深さなどなどを育みます。昔から日本人の心の宝物だと思います。
この先もずーっと、この歴史が守られますように。
保健センターの保健師の皆さまに、大変お世話いただきました。ありがとうございました。